凧八の発祥
古くは、静岡市内に20軒近く、駿河凧を製造しているうちがありました。
しかし、凧というのは季節のもので、通年の商品ではなかったため、
「際物師」と呼ばれる類の商売でした。
多くが、駿河凧の専門店というのではなく、家具や提灯といった、
他の家業を持ちながら、凧を製造していました。
凧八も、例外ではありませんでした。
三代目・加藤辰三郎の時代には、雛具(雪洞)の絵付けなども行い、
店舗では、きんつば屋を営む傍らで、子供相手に凧を描いていたものです。
現在の駿河凧は、大正元年に亡くなった静岡市新通りの
賤機藤吉(しずはたとうきち)が元祖といわれております。
そしてその弟子に、保本徳次郎と加藤徳次郎(凧八・二代目)の
2人がおりました。
賤機藤吉から2人に伝えられた技は、それぞれの子孫へと受け継がれ、
〔加藤徳次郎→加藤辰三郎〕という流れを辿って、
今日まで残ったのが、駿河凧「凧八」です。
しかし、凧というのは季節のもので、通年の商品ではなかったため、
「際物師」と呼ばれる類の商売でした。
多くが、駿河凧の専門店というのではなく、家具や提灯といった、
他の家業を持ちながら、凧を製造していました。
凧八も、例外ではありませんでした。
三代目・加藤辰三郎の時代には、雛具(雪洞)の絵付けなども行い、
店舗では、きんつば屋を営む傍らで、子供相手に凧を描いていたものです。
現在の駿河凧は、大正元年に亡くなった静岡市新通りの
賤機藤吉(しずはたとうきち)が元祖といわれております。
そしてその弟子に、保本徳次郎と加藤徳次郎(凧八・二代目)の
2人がおりました。
賤機藤吉から2人に伝えられた技は、それぞれの子孫へと受け継がれ、
〔加藤徳次郎→加藤辰三郎〕という流れを辿って、
今日まで残ったのが、駿河凧「凧八」です。